プロでも“バスケだけ”では食べていけなかった
現在のNBAは数億ドル規模の契約が当たり前だが、創成期から1960年代にかけては事情がまったく違った。プロリーグと言えど、多くの選手は高収入を望めず、オフシーズンになると普通に別の仕事に就いて生計を立てていたのだ。
驚くべきことに、これはリーグの底辺の選手の話ではない。当時の絶対王者ボストン・セルティックスの主力でさえ、その多くが副業を持っていた。
リーグ屈指の稼ぎ頭ラッセルでも、年俸は2.4万ドル
ビル・ラッセルは現役当時、NBAで最も稼ぐ選手の一人だった。それでも彼のルーキー契約は24,000ドル。当時リーグ1の高給取りだったチームメイトのボブ・クージーの25,000ドルを、わずかに下回る額だった。
リーグを代表するスターの契約でこの水準だったということが、当時のNBAの“稼げなさ”を何より物語っている。
王者セルティックスの主力も、オフは別の仕事をしていた
チャンピオンチームでさえ、主力選手の多くが副業を営んでいた。オフシーズンには、トム・ヘインソーンは保険業者として、ジーン・グアリアはプロのギタリストとして、ボブ・クージーはバスケットボールキャンプのコーチとして働いた。
名将レッド・アワーバックに至っては、プラスチック産業と中国のレストランに投資していたという。そんな中、ラッセルは副業に手を出すことなく、プロ選手としての収入だけで生活できる数少ない選手の一人だった。
“1ドルだけ上回りたい”——ラッセル10万1ドルの逸話
1965年、ウィルト・チェンバレンがNBA史上初の10万ドル契約選手となった。これを知ったラッセルはすぐにアワーバックのもとへ行き、10万1ドルの契約を要求したという。
アワーバックはそれにすぐ応じた。きっかり1ドルだけチェンバレンを上回る額を求めたこのエピソードは、生涯のライバルだった2人の関係を象徴する逸話として、今も語り継がれている。低年俸の時代から、トップ選手の“誇り”をめぐる物語は変わらないのだ。
